第131号 2025/10/1発行
何時になっても 今の子は
形が違うが願いは一緒
8月末に二女が嫁いだお寺の坊守(住職の配偶者)がお亡くなりになられ、葬儀に行ってまいりました。
二女は、幼稚園年長の子を筆頭に三人の子供がいますが、少し落ち着いたこれから、嫁ぎ先の寺やお檀家さんの事、また地域の習慣等を教えていただいたり、子育てを一緒にしてもらわなければならない時期なのに、頼りにする人がお亡くなりになったということは、二女にとって何とも言えない寂しさを感じていることでしょう。そんな中、葬儀への進行を見ていると、色々な違いに気付かされることが多々ありました。東日本、西日本という違いは大きくあることは知っていましたが、石川県は、本願寺八代の蓮如上人に連なる北陸門徒といわれる独自性と一般的な地域の独自性が重なっているので、私たちの行っている葬儀式作法とは違うように思われました。
とはいうものの私たち(柏崎地域)も地域外の人から見たら、相当頭をかしげるようなことをやっているかもしれないですね。どの地域においても、亡き人を偲び弔う形を、厳粛に厳修されていることは確かだと思います。
今の時代の私たちは、世界中にご縁のある方々がたくさんおり、グローバルな社会を生きていますので、初めて出会う葬儀に参加しなければならないことと多く出会うのではないだろうか。
出会ったことのない形の葬儀であっても、自身が亡き人とその場所で、どのような出会いをするかが問われてくる儀式になっていると思います。どんな葬儀式であっても、長い時をかけて、その地域に合った感情のこもった形ができあがって現在に伝わっていることを大切にしなければならないのでしょう。これからも生活の変化や亡き人とどのように出会おうとするかによって変わり続ける事でしょう。その地域の習慣や伝統・風習などを見つめることにおいて、地域の人の人間性や生活が見えてくるのではないだろうか。
亡き人を思い・偲ぶということは、私の「いのち」の歴史を感じ、亡き人たちが命がけで守り届けてくださった声なき声に込められた願いを感じ取ってゆく儀式として厳粛に参詣しなければならないと思います。
現代の私たちの生活の中に、厳粛に過ごす時間や、そのような雰囲気を感じさせてくれる場所がなくなってきており、楽に・便利で簡単に感じれば良しということが中心になっている家づくり、街づくりには喜ばれるように思われます。
どの時代の人に聞いても、その時の大人は、「今の若い者は」と言っていました。先輩から見ると後輩は頼りなく守ってあげたい優しい言葉が、「今の若い者は」ということになるのでしょう。私たちも、その言葉を言われながら頑張ってきたのではないだろうか。これからも過去を大事にしながら、新しい知恵を積み足して行ってくれるのではないだろうか。
亡き人を偲び手を合わすということは、長い時間をかけて、私のところまで届けられた「いのち」の歴史を見つめることになるのではないだろうか。
浄土真宗の荘厳
当院 井上宗温
お寺の本堂や各家庭のお内仏の飾り付けのことを荘厳(しょうごん)といいます。元々備わっている飾りや仏具もそうですし、そこにお供えする花や仏供(ごはん)、ろうそくなども全てお荘厳といいます。それはただ金色や黒に飾って立派にみせているというだけではなく、一つ一つに、仏教の大切な意味が込められているという事なのでしょうが、普段は中々そこまで深く考えて見ないと思います。
その中で一番基本となるものが香炉、花瓶(かひん)、燭台の三つで、合わせて三具足(みつぐそく)と言います。香炉は、香りが皆に同じように広がっていく事から仏法が分け隔てなく広がっていく事を表しているそうです。また、花瓶に供える花は阿弥陀仏の慈悲を表し、燭台のロウソクの灯は阿弥陀仏の智慧を表現しているそうです。
この阿弥陀仏を象徴するのが「慈悲」と「智慧」の二つで、「慈悲」は全ての命あるもの=衆生(しゅじょう)を慈しみ、その全てを救おうとするこころです。「智慧」は真実を明らかにする力で、私たち人間が自分中心の煩悩に囚われて苦悩の中に生きているというこの身の真実に気づかさせてくださる力です。この「慈悲」と「智慧」の二つがセットであることが大切ですので、荘厳でも花とロウソクが必ず一緒になっているのでしょう。
このように、普段何気なく見ている荘厳にも大切な意味が込められています。他の飾りや仏具にもどんな意味があるのか、考えながら見てみるのも大切なのかもしれません。
何がどれだけあれば満足
近年暑さのせいか、魚・野菜・果物が収穫において大きな変化が起きておりようです。
魚の現状を見ると、昨年までこの港ではほとんどとれていなかった魚が今年は大量に水上げされ喜んでいるけれど、その地域ではほとんど食べる習慣がないため、求められる人が少なく、手間賃にしかならないといわれている。
水温が高くなっているせいか、今までとれていた場所より北へ漁場が動いているように感じます。とれなかった魚がとれるのはうれしいが、扱い方がわからなかったり、その地域の食文化に入っていないので扱いに困っているようです。私たちの命の糧となっているものが、環境によって変化をしているならば、私たちの生活の方法も変えてゆかなければならないのでしょう。
人間のように他の生き物は、自分の都合のいい時に移動することはできないのですから、生き物にとっては一大事ということなのでしょう。元気のいい少数だけが残り、環境の合うところを探し、いのちを繋いでゆくようになるのでしょうか。
これらの現象は、今の地球のあっちこっちで起こっているのではないだろうか。これらの根っこにあるのは「地球の温暖化」で、それがもととなり多くの環境を刺激して起こる現象でしょう。
その現象を後押ししているのが、より上の便利さや幸せを求める人間なのです。どうにかならないだろうか。
自分の都合を中心に生きている私たちは、「生かされて生きている」ことを、何処で身につけたらいいのでしょうか。
「おかげさま」「おいしい」
「ありがとう」「ごめんなさい」
「いただきます」「ごちそうさま」
これらの言葉が何時でも出てくる生活が、私たちに願われている天候不順なのかもしれません。
