発行所:聞光寺発行人:釋温成寺報

第118号 2022/7/1発行

第117号

いずれの行もおよびがたき身

地球はひとつ

先日三条別院で開催された「男女両性で形づくる教区研修会」にかかわり参加しました。
仕事を中心にしている私たちの社会生活は、男女両性で形づくる営みは当たり前のことであり、何の不思議も感じず生活しています。しかし、私たちは、命あるものとして平等なのですが、現実は平等に扱われていないことに気づかされました。
平等に仕事を分け合ってしているように思っているけれど、それぞれの性が自分の都合がいいほうを選び、特に男性は最初に選んでいます。
そのような現実を不思議だと感じることなく、平等でない生き方を、力と権力によって、長い時間をかけて心身両方に浸み込ませてきている人間社会があるのではないだろうか。不平等を不思議と思わない感性になり、いのちそのものに正直に生きることができない人間になってしまったのではないだろうか。
文明文化が進み、多種多様な考えや行動をしなければ、他と競争することができない時代になり、それぞれの個性がはっきりとわかるようになってきました。
男性でも権力や権威で生きるのではなく、ゆったりとした気持ちで自然を楽しみながらスローな生活をしてゆきたい。また女性でも、一所懸命動き働いて周りの人と共にみんなにビックリされる仕事をしたいと思っている人がいてもいいんじゃないでしょうか。
「男らしく、男のくせに、女らしく、女のくせに」という思いが、日常生活の中で刷り込まれてしまっている現代社会を生きる多くの人たちは、以前と違う生き方をしようとする生き方はおかしいと思われるでしょう。
男から見れば、自分自身の居場所が脅かされ権力・権威があてにならなくなってしまうだろうし、女性は、このままのほうが無理をしなくても、守ってもらえるので今のままで十分なのだからと、頑張って新しい方向を向いた人の足を引っ張ろうとしている事が多いのではないだろうか。
男であっても女であっても、いやだと感じることは受けたくないし、やってはいけないことと、誰でも分かっていることなのに、今まで慣れ親しんで身についたこととして、知らず知らずのうちにやってしまっている自分に気が付かないでいます。
そのような私を責めることはできませんが、同時に他の人を責めることはできません。
私たちは、人のやっていることはよく見えるものですから、「人のふり見て我が身をただす」ことはできるのではないですか。気まずい時に自分を見つめる事が大切なのです。
自分を固く包んでいる常識という殻を感じ、平等といいながら自分の都合の良い方へと動き、共にと丸めこんでしまう「一緒に」は、どんな「一緒」なのでしょうか。
「平等に」「一緒に」と言っている私は、煩悩具足の凡夫であり、生まれも育ちも、生きてきた時代やかかわった人たちが違った中で生きてきたのだから違って当たり前なのです。
違っていることが解るならば、そのことを認めることから始まるのでしょう。
そして、間違いに気付いたその時に、社会やお互いが考えてゆかなければならないのでしょう。
気付いたら「ごめんなさい」「ありがとう」をいえるところから、「平等」「平和」が元気を与えてくれ、地球がひとつになって「共に」「一緒に」をつれて来てくれるでしょう。

二男、第三子が生まれました

当院 井上宗温

5月27日に二男、井上 慈温(いのうえ じん)が誕生しました。
出産予定日が6月20日過ぎでしたので、長女と同じく1ヶ月近く早く生まれることとなりました。新型コロナ感染症対策という事で、病室に立ち入ることは出来ず、出産してから1週間経って退院した後に、やっと対面する事ができました。
けれども生まれた時の体重は三千グラム以上あり、すくすくと順調に育っております。長男と長女も弟の誕生を喜んでおり、何かにつけて赤ちゃんの世話をやこうとしてくれます。
まだまだ体は小さいですが、それぞれが自分とは異なる「いのち」だという事が感じられます。やはり、子どもには生まれてきてくれてありがとう、妻にも産んでくれてありがとう、こんな私を父親にしてくれてありがとうと、感謝しかありません。
7月で長男は5歳となり、長女は現在2歳です。これまで二本で足りていた腕がいよいよ三本ないと足りなくなってきました。子どもの成長と共に、まだまだ自分も成長していかなければと思います。