第115号 2021/10/1発行
仏はこれ医王、法はこれ良薬
未来に伝えるもの
コロナウイルス感染が流行して、流行する前のように思い付きでの行動ができなくなって二年近くになりますが、ワクチンの接種が広まり、日本の人口の50%以上の方が終了しました。あと2ヶ月もすれば、接種したい人の全員が終了することになるでしょう。そうなると、接種した人たちの行動が賑やかなものになるでしょう。
柏崎のような地方都市では、半分以上の人たちが、ワクチン接種を終えても、感染したらどうしよう?感染させたらどうしよう?と思い、休日の行動範囲が広がっていません。しかし都会では、ワクチン接種を2回済ませた人は、抗体を持ったという安心感からか、休日になると、今まで動けなかった時間を取り返そうとするような行動で人出が増しているように思えます。
世界中の生活様式が、この1・2年でまったく変わってしまいました。この感染が収束しても、以前と変わらないような生活ができるとは思えません。私たちの生活は、今ある状況、結果を振り返り、先を見つめて進んでゆき、またその結果を基として先へ進んでゆく、そんなことを繰り返しながら人間は、文明・文化・生活環境を作ってきたんだと感じました。
私たち浄土真宗が根本経典とする「浄土三部経」の一巻、「観無量寿経」に私たちがより豊かに生きてゆく時間のかかわり方は、「過去・未来・現在」という時間を感じて生きることを教えて下さっています。
過去は、私が現在ここにいることの証明であり、存在を表現しています。そして未来にどのように在りたいか?未来の人たちが、どんな社会であったら喜ぶだろうか?を思い、私の現在立っている場所を見つめながら、私のできることから一生懸命に先へ進むことを言っているのだと思います。
もし私たちが、未来に願いをもたず、現在を歩もうとしたならば、その一歩一歩は、何も生み出さない虚しい歩みではないだろうか。何時何処で何が起きるか分からない自然の脅威、どこで爆発するか分からない国・人間の関係。何が起きるか分からないということは、何が起きても不思議ではないということです。何か起きた時に考えようでは間に合わないのです。
私たち自身のいのちの問題であり、未来の人たちに迷惑をかけることになりませんか?
何が起きるか分からない所にいる私たちは、来たものはすべて受け取らなくてはならないのですが、来るものは、良いこと(良縁)ばかりではなく悪いこと(悪縁)もあります。しかし、来たご縁はどのようなものであっても引き受けてゆかなければ前に進んではゆけませんし、逃げようとすれば、悪縁はより強く絡まり、良い縁であれば、大きく膨らんでゆくようです。
一つ一つのご縁を、受け取った処から一歩一歩歩まれて、私の願い・いのちの願いが育てられてゆくことになります。何が起きるか分からないこの娑婆世界でした生きられない私たちは、過去に生きた先輩たちが考え、創り育て、私たちに伝えたくださった智慧を、大切にしなければなりません。
未来の人たちに、仏の願いである「みんな仲良く共に生きる世界」の実現のために、何を育て伝えてゆくかを考え、悩み、迷い、苦しみながら現在を生きている私たちは、コロナウイルスのおかげで、何時何処で何が起きるか分からないことを教えていただきました。
私たちの向かうべき方向を教えて頂いたことに感謝しなければならないでしょう。出会ったこと全部にありがとうを言わなければならないのでしょうね。
報恩講
例年の報恩講・お引上会がまいります。報恩講とは、親鸞聖人のみ教えに生きる私達が、聖人の御苦労に感謝し、ご恩に報いるために勤める大切な仏事であります。
聖人は、九歳の時出家されて、比叡山に登られましたが、人間の心にひそむ煩悩(欲・怒り・愚痴)は、如何に修行してもどうにもならず、法然上人のもとで、お念仏(仏の智慧)のみ教えを仰がれました。
お念仏によって、自らの我執をてらされ、本願のまことに目覚めて、初めて自らのはからいを離れて、安んじて自分を尽し得る道にうなずかれました。ですから、親鸞聖人の御信心は、何かを信じ込むとか思い込むことと質を全く異にしたものであります。
如来大悲のお心に照らされて、自らの底知れない我執性・罪業性・有限性に気付かせていただくと同時に、かかる者を限りなく摂取し、生かしめたもう大悲(仏の働き)への信順と謝念であります。
人間中心的な時代社会で一番見えないのが自分自身です。聖人の御一生に聞き、安んじて自らを尽し得る人生の大道を、見開き歩む者となりましょう。
お内仏のお給仕
当院 井上宗温
「給仕」という言葉は、現在では飲食の席でその世話をすることや、する人の事を指して使う事が多いと思いますが、元々は貴人の身の回りの世話や雑用をすることを意味していたそうです。
だから、「お内仏」という大切なもの、場所に対して行う事を「お給仕」と言っているのだと思います。
お内仏のお給仕というのはお花やお仏供(ご飯)を供えたり、ろうそくや線香をつけたりすることだけを指すのではありません。定期的に中のお掃除をする、仏具を磨くなどお内仏をきれいに整えておくこともお給仕になります。もちろん、お念仏を称えたり正信偈などのお勤めをしたりすることもお給仕です。
お給仕の仕方はお内仏の形、大きさ、それぞれの家のやり方によって変わってくると思いますが、全てのお給仕の基本は、ご本尊阿弥陀如来やご先祖(諸仏)に対する報恩感謝の心です。
その心を、改めて年に一度確認するのが報恩講になるのではないかと思います。報恩講を迎えるにあたり、お内仏のお給仕を改めて確認すると共に、自分の心と向き合う事が大切になってくるのではないかと思います。