第105号 2019/4/1発行
今、ここに生きている私
携帯電話の時代
最近どこへ行ってもそこにいる人の6割の人が携帯電話をいじっています。携帯電話の出現によって、社会が大きく変わってきました。街にあふれていた公衆電話を探すことが難しくなってきましたし、若い人の部屋や家には、固定電話をつけないようになってきています。そして一世を風靡したポケットベルは近々完全になくなるようです。
平成は、パソコンとAIの時代と言われていますが、携帯電話はどのように使われていたのでしょうか。電話と言いながら、電話中心での使用はあまりないように見受けられます。通信手段としては、ラインあるいはメールを中心に使っているようです。しかし携帯電話は、コンピューター機能があるので、通信として使っていない時は、ゲームや物探しで長時間使っているようです。
ちなみに私は、通信以外では、道調べや分からないこと、気になることなど百科事典代わりに使っております。たくさんの使い方があり、多くの時間をとられてしまっているように思います。
東京都内の電車の乗客の80%が携帯電話を動かしていました。乗車中は電話機能はご遠慮下さいとアナウンスされているので、探し物かゲームをやっているのでしょうか。しかし、色々使えて便利になったけれど、それを使うことによって弊害がたくさん出てきているように思われます。それは、使うのに夢中になりすぎて、自分が今どういう行動をしているのか、わからなくなっているための事件が多くなってきています。
歩いている時、自転車・自動車を運転している時等、使用禁止のなずなのに使用している姿をよく見かけます。携帯電話でゲームをしていただけの事が、自身の人生を大きく変えることになる要素を多く含んでいるのではないでしょうか。
自分だけならば代償として受け取ればいいのですが、他を巻き込んでしまったならば、他の関係者の人生まで台無しにしてしまうことになってしまいます。「文明の力」も使い方や、使う人の都合を優先してしまうと、とんでもないことになってしまいます。
今、私たち人間が、便利で楽するためにいろいろの物を考え発明し、楽しく快適な生活をしているようですが、人間は人間としての本来持っている人間らしさを、なくさないようにしなければならないと思います。
しかし、私たちはすぐに楽な方へ楽な方へと流されてしまいます。流されるということは、本来行かなければならない方を向いていないという事になり、悩み・苦しみ・迷いが現れてくるのでしょう。
私たち煩悩具足の凡夫は、自分の都合のよいことが幸せであるように錯覚して、六道を流転しています。そんな私に、私の思いを超えて、私を照らしてくる仏の光(こころ)に気付かなければ、六道を流転し続ける私は、思いよりも早く進む社会に飲み込まれ、流されてゆくのではないでしょうか。
日々の生活の中で、沢山の「おかげさま」の中にいることを思ってください。
亡き人をしのぶ会
今年より10月25日午前10時より、この1年間に亡くなられた、聞光寺ご門徒の物故者法要を、親鸞聖人報恩講の前に、家族の方と共に「亡き人をしのぶ会」として行いたいと企画しました。家族・兄弟・姉妹何人でも来ていただいてもかまいません。
ただ簡単なお斎がありますので、出欠を事前に取らせて頂くこととなります。案内状は8月ころ出そうと思っております。
亡き人をご縁に、いま生きている私の「いのち」の歴史を見つめてみませんか?
新しい集まりですが、大きく育ててください。
最近の出来事
当院 井上 宗温
先日、十組青少年部の勉強会で、沖縄から大谷派僧侶である知花昌一氏を招いての聞法会がありました。辺野古基地移設問題で昨今、幾度となくニュースとなっている沖縄ですが、実際どういう事が起こっているのか直接現地の方に聞いてみたいとの実施でした。
今の沖縄がどんな状況なのか詳しく聞けると思っていたのですが、その話は予想外のものでした。
何故なら、知花さんの話は主に、第二次世界大戦後からの沖縄の歴史だったからです。ですが、その歴史があるから未だに基地問題に沖縄の人達は苦しんでいるのです。
大戦後、米国の支配にずっと苦しんで来た沖縄は日本に復帰して喜んだそうです。けれども、復帰とは名ばかりで、米国支配の時から状況は殆ど変わっておらず、米軍基地の多くが沖縄にそのまま残っています。
話を聞く内に分かった事は、沖縄が望んでいる事です。他県と同じ扱いをして欲しい。米軍基地が必要だというのなら、日本全体で基地負担をして欲しいという事です。それなのに日本政府は未だに無理矢理沖縄に基地を負担させようとしている。それは、沖縄には基地が有って当然と、沖縄以外の国民に沖縄を差別する心があるからです。
米軍基地問題を遠い沖縄の問題だと人事にせず、自分自身の問題だと受け止めて行く必要が私達にはあるのではないでしょうか。